ACKEE&SALTFISH
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愛知県名古屋市昭和区出身。
本名:明宏(ACKEE)弟、宏之(SALTFISH)兄
1966年12月10日生まれの双子。
高校生時代、セックス・ピストルズに影響を受け、パンク・ロックバンド「ローズ・ジェッツ」を結成。同郷の先輩バンドだった「スター・クラブ」のフロント・アクトを務め、関東・関西を回る。自主レーベル「チャイルド・ペインター」より、1st ミニ・アルバム【You Don't Say So!】を制作し、当時まだ高校生ながら同作品を自主流通にて、1,000枚を1ヶ月で完売。
その後、パンク・ロックに通じるとも言えるレベル・ミュージックであり、独特のグルーヴを持つ「レゲエ」と出会い、当時、日本に情報が入り始めたばかりだった「ダンスホール・レゲエ」を知る。スーパー・キャット、ニンジャマンなど、当時最先端の音源に触れ、大きな影響を受ける。。
1987~
1987年明宏単身でロサンゼルスへ。 「ブラザー・ジョンソンズ」のベーシスト、ルイス・ジョンソン氏と偶然に出会い、彼の中に流れる「音楽とは一体何か」の教えを授かる。この時期に明宏はローズ・ジェッツのギタリストと共に一度ジャマイカを訪れている。
1990~
1990年5月 宏之単身でニューヨーク・ブルックリンへ。
スカ・オーセンティック「スカタライツ」のサックル奏者、故ローランド・アルフォンソ氏の子息で、ドラマーのノエル・アルフォンソ氏(シスター・キャロル・バンド、デジタル・ニューヨークなどで活躍)の住むコミュニティーに、ひと夏滞在。ノエル氏や、ジャマイカのベテラン・アーティスト、メジャー・マックレル師のサポートを受け、レゲエDee Jay(ヒップホップで言うところのラッパー)の道を歩み出し、バーリントン・リーヴィ、フランキー・ポール等のフロント・アクトをニュー・ジャージーで
行うなどといった貴重な体験をこの時期に得る。 帰国後、自らのレゲエ探究心の「答え」は「海の向こう」と見い出し、同年12月8日、2人揃ってニューヨーク・ブルックリンへ。(因みに12月8日は大日本帝国軍隊真珠湾攻撃の日)
1991~
2人でのNY生活を3ヶ月あまり過ごした後、翌91年春、いよいよ2人揃って、ジャマイカ長期滞在を始める。ノエル氏の勧めで、父であるローランド氏の実家(ノエル氏の祖母宅)にあたるキングストン13地区、ワルタムへ渡る。「郷に入り手は郷に従え」の精神でジャマイカをみさぼった。「ACKEE & SALTFISH」(アキ アン サーフィッシ と発音)、その名の由来はジャマイカ国を代表する料理であり、明宏の呼名が「アキ」であり発音が同じ事、その合方は「SALTFISH」と当時のワルタムの仲間達から譲り受けた名前である。ちなみに彼等の隣街リーマ には「ドンプリン & カラルー」(これまたジャマイカの料理)なる小田原系のタッグ・チームの存在があった事が確認されている??
ニューヨークでの経験を武器に、ある夜、サウンドシステム(屋外用移動式ディスコ)の老舗「メトロメディア」のダンスにて看板DJのダニー・ドレッドより「Uno Can DJ?」(お前達DJできるのか?)の質問に「Yah Man!」(あったりみゃ~だてぇ!)の返答でマイクを譲り受け、会場を大マッショップの渦に巻き込む。すぐさま、ビーフ・パティで有名なテイスティー主催のタレント・コンテストにエントリーし、健闘、大受けを取る。それが夕刊紙に報道されたのがきっかけとなり、ランキン・タクシー、ナーキに次ぐ、3組目の日本人アーティストとしての名を島中に広めることとなる。
その後、シンガーのシンギン・メロディーとの7月1日(金)の出会いを期に、島中のダンスの現場及び島中のコンサート会場を回る様になり、島内でのその知名度は更に上昇。その流暢なパトワ(ジャマイカン・クレオールの現地の英語)使いと、双子であると言うインパクト大のキャラ立ちから、人気者となる。
1992~1994
こうした約1年ほどのジャマイカ滞在後、92年3月頃、再びニューヨークへ。拠点を米国に移し、アーティスト活動を開始。恩師メジャー・マックレルと共にマイアミへ、更に盟友シンギング・メロディーと合流し、オハイオ、単独でブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、コネティカット、等でのステージを経験。その後も、ニューヨークで生活しながらアーティストとしての経験を積み上げて行く。
そして4年以上の年月を米国で過ごす。この期間に、現在の日本レゲエ・シーンの中核をなす多くの人材が、アキソルの元を訪れ、滞在し、ジャマイカへ旅立ち、また訪れては滞在し、そして帰国、を繰り返していった。そうして紡がれた人脈、多くの仲間によって語られた様々な想い、夢が、その後の爆発的な国内レゲエ・シーン形成の土壌になっていった。
1995~
現在も多くの仕事を共にする「チャイナマン」の愛称で知られるジャマイカ人スタッフ、トレヴァー・リン氏の制作したコンピレーション・アルバム【Hit's Ago Buss】に「EDUCATE」という楽曲で参加。同作が、日本国内のメーカー、アルファ・エンタープライズから発売されることとなり、これが国内デビューとなる。そのプロモーションのタイミングで、正式帰国する。【Hit's Ago Buss】リリース後、
シングル「風まかせ」を単独名義でリリース。全国ネットの旅番組のエンディング・テーマにもあり、注目される。
1996~
満を持して、1stアルバム制作のために、再びジャマイカへ。
ダンスホール・レゲエの殿堂、「キング・ジャミーズ」レーベルのロイド・ジェームス氏を共同プロデューサーに迎え、日本レゲエ・シーンの扉を開く、名作1stアルバム【NAH TEK BACK~男に二言無し~】を制作、4月25日にドロップ。大きな衝撃を与え、当時、まだ暗中模索中だった国内シーンを、一気に活性化させた。その後、バンド時代の経験を生かし、自らのプロダクション「錦コミュケーションズ」設立。手始めに、1stアルバムのリリース・ツアー「NAH TEK BACK TOUR '96 ~旅は道連れ世は情け~」を企画。当時、まだ、地域間の交流という発想すら無かったシーンに、手作りのクラブ・サーキットとして、北は北海道、南は九州・沖縄まで全国25ケ所を回り、現行シーンのネットワークの礎を築く。
1997~
地元名古屋に完全帰還し、錦コミュケーションズでの活動を本格化させ、バック・トラック制作から、全ての行程を自ら管理し、制作された2ndアルバム【BUSH OUT ~でゃあつぅ~】を7月7日リリース。全曲ジャマイカ録音だった前作とは異なり、日本の国民性、風俗、情緒を意識した「日本語レゲエ」の創造を本格的に開始した。再び、「BUSH OUT TOUR 97 ?でゃあつう?」を企画。全国20カ所以上を巡り、多くの協力者たちとの再会を果たす。
1998~
当時のシーンは、まだ、ジャパニーズ・レゲエで、単独名義でフル・アルバムをリリース出来る様なアーティストが稀、という様な状況であった。メジャー・デビューしていた者も数える程度。そんな時期であった98年7月、完全セルフ・プロデュースのオリジナル3rdアルバム【WATCH NUTTEN ?御意見無用】を、3年連続でリリース。盟友シンギング・メロディーをフィーチャーしたり、ローズ・ジェッツ時代の再演曲がシークレット・トラックとして収録されるなど、自由奔放な音楽性をむき出しにした
作品となった。
当然のことながら、全国20カ所以上を巡る「WATCH NUTTEN TOUR 98 ?御意見無用」を
企画。最高水準の国内レゲエ・ミュージシャンを集めたスーパー・バンド「DUMPLIN’ BAND」(KUUBO、森俊也、阿部吉剛、井浦英雄、ケニー井上)を結成。ファイナルの名古屋ダイヤモンド・ホールでは、ジャマイカよりシンギング・メロディーを呼び寄せ、3部構成で計5時間にも及ぶ鉄人ライヴを決行。更には当時、東海エリアで活動していたほとんど全てのサウンドが集結。大きな話題となった。
1999~2001
99年8月、レゲエの枠に捕われない、斬新かつ、ポップなシングル【HEAT UP c/w GAL WE LOVE REMIX ?水団の術?】をリリース。新たな領域を開拓し、20カ所に及ぶ、このシングルをタイトルとしたツアー「HEAT UP TOUR 99」を敢行。 00年7月、クールなスタンスのシングル【明日は明日 c/w DRAW CARD】をリリース。熱心なファンの間では名作と呼ばれるマキシ・シングルである。 01年4月、久しぶりにレゲエ・マナーにおけるヤンチャなトピックのシングル【SHATTA FIRE c/w 御法度】をリリース。アナログのみでリリースしたリミックス・ヴァージョンには、旧友であり、大先輩であるDJ YUTAKA REMIXや、当時名古屋で勢いをふるい始めたMOSADOをフィーチャーするなどヒップホップにアプローチした。 また、この頃から名古屋の広告代理店から多くの依頼を受け、
焼肉店「かるび大将」など、地方CMソングを手掛けることも増える。そうした東海エリア限定のCMソングが、徐々に結果を出し、沖縄最古の酒蔵と言われる老舗「新里酒造」より、泡盛「かりゆし」のCMを、曲のみならず、本人出演でオファーされる。沖縄ロケで収録されたそのCMは、現地では
「筑紫哲也のNEW23」の時間帯で放映されたことなどもあり、話題となり、シングル【そろそろかりゆし】は,沖縄限定発売にも関わらず10,000枚というスマッシュ・ヒットとなった。
2002~
この年は国内メジャー・シーンで多くのアーティストがデビューを果たした。ジャパレゲのメジャー化が本格的に始まった年である。この年、アキソルは、沖縄中心の活動を継続。この年から始まった「ジャパン・レゲエ・フェスタ・イン・沖縄」の様なメジャーなイベントに参加しつつも、全く観光客を対象としていない伝統あるロック・フェス「ピースフル・ロック・フェスティバル」などにも参加し、モンゴル800、インディーズ時代のオレンジ・レンジらとも共演、地元の新聞の一面を飾るなど、レゲエ・シーンとは全然関係のないところで、画期的な成果を上げていた。
更に沖縄に傾倒した楽曲作りを続ける。
2003~
いよいよ4thアルバム【STILLA STRUGGLE】の制作の仕上げに取りかかる。それに際し、彼等のとった行動は、沖縄音楽に寄った曲を多く収録した4作目の外伝的な沖縄限定のアルバム【かりゆし】の同時リリースだった。【かりゆし】を6月25日、【STILLA STRUGGLE】を8月4日にリリース。5年振りのフル・アルバムは、アキソルのスタイル「男の生き様」と同時に存在し続ける「明るく楽しいアキソル」が健在。更に熟成された貫禄と、新たに体得した沖縄フレーヴァーが融合した完成度の高い仕上がりとなった。そのアルバムを引っ下げ、尾張名古屋を皮切りに全国29ヶ所を巡る「STILLA STRUGGLE TOUR 2003 "」を決行。全国の支持者と久しぶりの再会を果たし、時流に惑わされない根強いアキソル・ファンの存在を再認識することとなった。
2004~
沖縄にひとまずの決着を見い出し、再び視点をジャマイカに据える。
「レゲエを知り、ジャマイカを訪れ、出会った人々が居て、今の自分たちが居る。」この事実に対する決着を付けるべく、今まで関わったジャマイカン・アーティストとのコラボレーション・アルバム制作の構想を打ち出し、再び渡ジャマイカを決意する。が、その前に、自らが主催する野外フェスを企画。知多半島先端の町、内海の、南知多町民会館グラウンド特設ステージにて、第1回目の「愛知レゲエ・ブリーズ」を8月に開催。手作りのフェスながら5,000人を動員する。 ひと仕事を終え、その秋に渡ジャマイカ。アーティスト活動を再会するためキングストン事務所開設などの準備を始める。シンギング・メロディーとのコンビネーション曲【SWEET JAMAICA】、チャック・フェンダーとの【RASTA LOVE】をレコーディングし、一時帰国。
2005~
春、地元の回転寿しチェーン「にぎりの徳兵衛」のCMソング【喰いねえ、喰いねえ】をレコーディング。東海地区を中心にオンエアされる。
コラボレーション・アルバム【BREDREN】の構想を具現化すべく再び渡JAし、
ブジュ・バントン、モーガン・ヘリテッジ、メジャー・マックレル、ジョニー・Pらとのレコーディングを継続。
5月、シングルCD【喰いねえ、喰いねえ】リリース。7月、シングルCD【SWEET JAMAICA feat: SINGING MELODY】リリース。更に8月、モーガン・ヘリテッジ、シンギング・メロディー、チャック・フェンダー、リッチー・スパイスらを招聘し、第2回目となる「愛知レゲエ・ブリーズ」を開催。
前年の倍の8,000人を動員。国内アーティストのみイベントとの一線を画すフェスとして大きな話題となる。 秋に再渡JA。キングストン事務所を開設。
更にコラボレーション・アルバム【BREDREN】の制作を詰めながら、地元不動産会社「住まいのスマイチ」のCMを手掛け、楽曲と同時に出演。オール・ジャマイカ・ロケの映像をコーディネイト。東海エリアでは大きな話題となる。
12月、モーガン・ヘリテッジの主催するジャマイカでのビッグ・フェス「EAST FEST」に日本人アーティストとして初めて出演。幼少の頃に習った極真空手の型を披露し「KARATE STYLE」と大受けを取る。 この年はジャマイカで年越し。
2006~
アルバム【BREDREN】の制作を3月頃まで進め、「愛知レゲエ・ブリーズ」のこの年のジャマイカン・アーティストの目玉となる人物との根回しなどを済まし、帰国。
この年から「愛知レゲエ・ブリーズ」会場を、南知多町民会館グラウンドから、海に面し、規模的にも拡大される内海港緑地特設会場に移動することもあり、
準備に取りかかる。8月、【BREDREN】にもコラボ曲が収録されているブジュ・バントンをジャマイカより招聘して、第3回の「愛知レゲエ・ブリーズ」を開催。10,000人を動員し、大成功を収める。
同時にブジュの国内ツアーも企画し、内海まで来れないレゲエ・ファンの期待にも答え、
「レゲエ・ブリーズ=凄いアーティストを呼ぶ」、「アキソルらしいフェス」という流れが定着する。
12月、再びジャマイカに渡り、観光客を対象としない最大のフェス「STING 2K6」に
日本人としてはNAHKI以来の出演を果たす。
2007~
年初より、アルバム【BREDREN】の仕上げにかかり、6月にリリース。
かつて17年前のジャマイカ時代に出来た縁を、いつの日かアルバムという形で完結させたいという想いを、とうとう成就。92年のNYでのライヴ映像も収録したDVDも添え、ジャマイカから受けた恩に一応の決着を付ける。
8月、誰もが信じなかった伝説の男、スーパー・キャットの招聘に成功。キャットと一緒に国内を回るうちに、更に親交を深め、世界的にも貴重なライヴ映像の発売の許可も得て、万全の体制で、第4回目の「愛知レゲエ・ブリーズ」を開催。12,000人を動員。 秋より、「愛知レゲエ・ブリーズ2007DVD」の編集に取りかかる。キャットの気持ちにも答えるために、アキソル自身が完全対訳の作業に没頭する。
2008~
4月、「愛知レゲエ・ブリーズ2007DVD」発売。力作とも言える渾身の字幕スーパーは、人間味溢れる言葉で、キャットの会話、リリック全てに施され、稀に見る、ジャマイカ文化を日本人のレゲエ好きの視線で伝える好内容の作品となった。
8月、またしても誰もが信じられなかったニンジャマンを来日させ、第5回目の「愛知レゲエ・ブリーズ」を開催。12,000人を動員。国内トップ・アーティストと、伝説的なジャマイカン・アーティストの共演するフェスとして完全定着する。
10月、様々な想いを込め、ついに5枚目となる強力なコンセプトに基づくオリジナル・アルバムの制作に着手。
11月、先駆けるシングルとなるべき曲「櫻/待った無し」をレコーディング。
2009~
2月、シングル【櫻/待った無し】をリリース。壮絶なまでの日本回帰への想いと、おぼろげながらも漸く見えてきた、レベル・ミュージックとしてのレゲエのメッセージを叩きつけるべき対象=敵など、次作のコンセプトを表現。「和」テイストのPVも話題となった。この年のレゲエ・シーンの最高峰“マヴァド”を招聘しての、第6回「愛知レゲエ・ブリーズ2009」を大成功に終わらせる。
2010~2011
前出のシングル【櫻/待った無し】をリード曲とし、現代日本に警鐘を鳴らす、自身5作目となる大問題作、【再鎖國論】を発表。
明治の開国以後、西洋至上主義に乗っ取り、異国文化を輸入し続け、垂れ流され続ける情報社会に、
何が正しく、何がそうで無いのかを、見極めるには、開国以前よりこの国が受継いで来た心を今一度、
見直す必要を抱き、それは、「マインドの防御」であり、それを論ずるが故に、「再鎖國論」と彼等は主張する。このアルバムのリリースツアー「再鎖國行脚」は、2010年の暮れから、2011年の初夏にまで及び、後に続く者達へメッセージを届けるため、今もなお、続いている。
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